春日部のあゆみ(常設展示の概要)

更新日:2022年07月19日

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常設展示では、およそ3万年前から現在に至るまでの、春日部のあゆみを展示しています。実物や複製資料・模型を展示するほか、実物の資料を体験するものも用意しています。

春日部のあけぼの~原始・古代~

春日部市には、大宮台地の東端、および下総台地の西端が伸びています。また、大宮台地と下総台地との間には、古隅田川、古利根川、庄内古川(中川)、江戸川などの河川が流れる低地があります。この春日部の地に人々が住んだ痕跡が残るのは、およそ3万年前の後期旧石器時代のことになります(西金野井・風早遺跡、にしかなのい・かざはやいせき)。内牧・坊荒句遺跡(うちまき・ぼうあらくいせき)でも、同じころ約2万5千年前の石器が発見されています。その後、縄文時代には、大宮台地上に内牧・坊荒句遺跡と坊荒句北遺跡、花積貝塚が、下総台地上に西金野井・風早遺跡、西親野井・神明貝塚(にしおやのい・しんめいかいづか)ほか数多くの遺跡が発見されています。弥生時代では、紀元前1世紀ごろの再葬墓(さいそうぼ)が低地の自然堤防上にある倉常・須釜遺跡(くらつね・すがまいせき)から発見され、人々の生活域が台地上から低地へも広がっていたことが分かります。6~7世紀ごろには、19基以上からなる内牧・塚内古墳群(うちまき・つかないこふんぐん)が築かれました。

常設展示では、花積貝塚で検出された約4800年前(縄文時代中期)の竪穴式住居(たてあなしきじゅうきょ)を、原寸大で推定復元しています。また、花積貝塚(はなづみかいづか)で発見された人骨をもとに復元した、大人の男性の復顔模型、県指定文化財である須釜遺跡の土器などを展示しています。

縄文人の復顔模型と縄文土器の写真
縄文時代の竪穴式住居復元模型の写真

春日部氏の登場~中世~

浜川戸遺跡から出土した板碑の写真

奈良時代・平安時代には、古隅田川や古利根川沿いの自然堤防上に住居跡などが発見されています。そして、中世に入ると、現代の春日部市の地名にも通じる鎌倉武士、春日部氏が当地を本拠としていました。粕壁地区にある浜川戸遺跡(はまかわどいせき)は、春日部氏の居館跡であると考えられています。当時は旧利根川(おおむね現在の古利根川・古隅田川筋)を境界に、市域の大半は下総国下河辺庄(しもうさのくにしもこうべのしょう)に属し、豊春地区の一部と内牧地区が武蔵国太田庄(むさしのくにおおたのしょう)に属していました。春日部氏は、鎌倉幕府内部の権力争いに巻き込まれ、一時衰退します。その後、南北朝時代に春日部重行、春日部時賢といった武将が後醍醐天皇方で活躍しています。室町時代から戦国時代にかけては、岩付(岩槻)の太田氏、幸手の一色氏などの戦国領主や、後北条氏・古河公方の勢力下にありました。戦国時代末には、幸松地区小渕の地に「幸手不動院」という修験寺院が開かれ、大きな力を持っていました。なお、不動院は大正時代に東京へ移転しています。

常設展示では、浜川戸遺跡の出土品の磁器や板碑、幸手不動院に関わる古文書(レプリカ)などを展示しています。

日光道中粕壁宿~近世~

天正18年(1590年)に徳川家康が江戸へ入り、関東地方の大半を治めるようになると、市域も大きく変化します。事実上の首都となった江戸と、日光および東北地方を結ぶ日光道中・奥州道中が整備されました。市域にも日光道中(にっこうどうちゅう)が通り、粕壁の町は宿場町(しゅくばまち)として栄えました。江戸時代終わりごろには粕壁宿(現在の粕壁地区の範囲)には3700人余の人々が住み、773軒の家々が軒を連ねていました。宿場町では、通行者に馬や人を提供したり、本陣・脇本陣や旅籠など宿泊施設が整えられました。参勤交代の大名や、松尾芭蕉などの多くの旅人が日光道中を通り、粕壁宿で休泊しました。また、江戸時代には河川や農業用の水路の整備が進み、多くの新田が開発されています。寛永17年(1640年)ごろには、江戸川が開削され、江戸川沿いの西宝珠花(にしほうしゅばな)、西金野井(にしかなのい)などは河岸(かし)として栄えました。河岸とは、船着場、川の湊のことです。年貢米や農産物、肥料、生活品などの荷物や旅人乗せて、江戸と河岸を結んだ船が発着し、にぎわっていました。

常設展示では、江戸末ごろの粕壁宿推定模型や道しるべ、河川工事や宿助郷に関する古文書などを展示しています。

粕壁宿模型・上喜蔵河岸(かみきぞうがし)の写真
日光道中の道しるべの写真

近代から現代へ

明治の世となり、近代的な諸制度が整えられていくなかで、明治22年(1899年)市制町村制が施行され、市域には11町村が成立しました。江戸時代からの地名をとった内牧村、粕壁町、宝珠花村、村民みんなが豊かになるようにとの願いがこめられた豊春村(豊かに春和す)、豊野村(豊かな田野)、富多村(富が多い・富田)、中世以来の郷名や地域名称から名付けられた武里村(武蔵野の里)、幸松村(幸手領と松伏領)、桜井村(桜井郷)、南桜井村(桜井郷)、川辺村(下河辺荘)など、多彩な地名が生まれました。明治の合併での町村名は、今でも地区名や小学校名として使われています。昭和19年(1944年)、戦時合併で内牧村と粕壁町が合併し、春日部氏ゆかりの名をとって春日部町が成立しました。戦後、町村合併促進法により、昭和29年(1954年)春日部市と庄和村(昭和39年より庄和町となる)が誕生します。「庄和」は、江戸時代以来の地域呼称である庄内領の村々が一致和合しましょう、という願いから名付けられました。平成17年(2005年)10月、春日部と庄和の両市町が合併、新しい春日部市が誕生し、現在にいたります。

春日部は、明治時代以降も、主要な道路・鉄道が交差する交通の要衝として発展してきました。明治10年(1877年)には、江戸川に蒸気船通運丸の運行が始まります。当時、蒸気船は利根川・江戸川だけでなく、霞ヶ浦・北浦・渡良瀬川(わたらせがわ)・思川(おもいがわ)流域に至るまで人や物資を運び、東京と北関東を結ぶ主要交通網でした。江戸川沿岸に位置した西宝珠花(にしほうしゅばな)は、蒸気船の船着場として問屋(とんや)・回漕業(かいそうぎょう)・酒屋・料理屋・船宿(ふなやど)がひしめき合った町として栄えました。一方、江戸時代の日光道中は明治に入ると陸羽街道(りくうかいどう)となり、明治26年(1893年)から4年間、この海道を利用した千住馬車鉄道が粕壁と北千住との間に開通します。明治32年(1899年)には東武鉄道が北千住~久喜間に開通し、粕壁駅が開業、昭和4~5年(1929~1930年)には、北総鉄道(のちに総武鉄道に改称、現東武鉄道野田線)も開通しました。

粕壁と北千住との間に開通した千住馬車鉄道のイラスト

今もなお東京のベットタウンとして発展する一方、桐ダンス・桐小箱・麦わら帽子・押絵羽子板(おしえはごいた)などの伝統産業や、やったり踊りや獅子舞(ししまい)、神楽(かぐら)などの伝統芸能も息づく都市として発展してきています。国選択無形文化財の宝珠花(ほうしゅばな)の大凧あげは、近世後期の養蚕占いの凧あげを起源とし、明治時代に百畳敷の大凧あげとなりました。

常設展示では、明治初年の地租改正(ちそかいせい)に関連する算額(さんがく)、粕壁町時代の古写真、千住馬車鉄道ゆかりの資料などを展示しています。

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